2018年03月29日

萌ゆるペン!最新時事評論


 2020東京五輪のボランティア募集の内容が公表されたが、十一万人は目標が大きすぎる。地方からの交通費や大会中での宿泊費が自己負担では、集まる人数は限られるのではないだろうか。新国立競技場では真夏開催での冷房が装備されておらず、酷暑のなか熱中症や脱水の患者で、無数の救急車がかり出されることは目に見えている。かち割りを配布するようだが、焼け石に水とはこのことだろう。理念無き2020東京五輪のツケは果てしなく大きいように思えてくる。日本のメディアでは報じられていないが、2020東京五輪の収賄の物証をフランス検察が入手したらしい。「電通と前国際陸連会長との極秘契約書」があるというが、日本国内に捜査が及べば開催云々といってはいられなくなり大変な事になる。電通としては、国会が揉めているこの時期を凌げばどうにかなると思っているに違いないが、今後どうなるのだろうか。
 国や組織のトップには器量の大小が物を言う。今の時代、世界を牽引又は影響を及ぼしている人物は、トランプ氏、プーチン氏、習近平氏、金正恩氏、くらいでさしたる大物はいない。ましてや安倍氏に至っては小物感が漂い、世界からの疎外感は否めない。
国外の政治・経済・軍事問題の急展開をよそに、国内では低レベルなまつりごとが展開されている。永田町では党利党略もからむ森友・加計学園を発端とした公文書改ざん問題や国有地の不適正な払い下げ問題で、肝心要の国民の現実的な暮らしが軽視され、民意が無視されているというのが大方の世論だと思う。元国税局のトップである佐川氏の証人喚問で、森友学園問題の幕引きを狙った与党は、逆に疑惑が深まった。与野党がこぞって真相解明への要求を増している。この際内閣総辞職でリセットするしか無いだろう。それが世論の大勢だ。権力を手にすればだれでもそのイスに未来永劫座りたいという本能があり、それをめぐっての縄張り争いが有史以来の人類の課題になっているのは仕方が無いのだろうが、何処かに理性で自制する叡智も必要で、その力が無かったからホロコーストや文明の興亡が繰り返されてきたことは歴史的事実が物語っている。紛争や悲劇的な戦争の体験があるからこそ、その反省に終始こだわり続けるのは自然であり、その経験がない世代の時代になると悲劇の教訓は無視され、再び同じ過ちを繰り返すことになる。人類の古代の戦記やことわざに学ぶ術はあるのに、際限なく興亡が繰り返されるのは人間の業だから諦めるのは、先人の人達に失礼にあたるし畏敬の念を抱かなければならない。米国のトランプ氏は、西部開拓史の先駆者的なイメージがあり過度な保守思想と守銭奴的な経済感覚、そして利己的な発想が基本の人間性が顕著で、米国の一部の支持者のための小山の大将という評価を下さざるを得ない。要するに、世界をリードしていくリーダーとしての器ではない。その器にすり寄り下僕の外交をしている安倍氏には限界が来ている。このままでは、日本の危機がどんどん迫り国土が焦土と化す可能性は十分ある。国内での自身の関わった諸問題にケリをつけ、後進に道を譲る器があるかどうか国民は固唾を飲んで注視している状況にあることは間違いないだろう。米国隷属のまつりごとには必ず落とし穴が待ち受けている。田中前首相のロッキード事件をみれば一目瞭然だ。外国の証言者の刑事責任には免除しつつ国内では適用させる異例の刑事裁判となった背景には、日米に於ける戦勝国・敗戦国の力関係が優先したのに大きな素因があった。当時日本は次期対潜哨戒機の純国産化を目指していたが、ロッキード社のP3C対潜哨戒機の導入により、純国産化計画が潰れてしまった。次期対潜哨戒機純国産化が表沙汰になった時、米国からの横槍があった形となった。ロッキード社が日本のフィクサーを使って防衛省に攻勢をかけていたが、日本政府の次期対潜哨戒機の純国産化計画は動かなかった。そこで、米国は軍産複合体が政治家を利用し、目の上のたんこぶだった田中角栄氏をロッキード問題でスケープゴートさせたのだ。マスメディアではあまり報道されなかったが。それと似たようなこの度の、純国産ステルス戦闘機「心神」を米国も絡めた共同開発とすることを安倍氏が決めてしまった。歴史は繰り返されたのだ。国内ではいまだに制空権は米軍が握っているし核の傘に守られ、使用済み核燃料の行方は米軍に管理されている。脱原発の行方も未知数だ。日米安全保障・日米原子力協定・日米地位協定の見直しがない限り、日本は日出ずる国にはなれないのが現状だ。常任理事国にも監視されている敗戦国ニッポンの行方は、ひとえに今後のリーダーにかかっている。北朝鮮の金正恩氏が中国の習近平氏と会談したようだ。皇帝と小皇帝の仲良し組と見て取れるが、ロシア・中国・北朝鮮という独裁国家が紛争を避けようとするのなら余計な邪魔はすべきではない。日本は米国追従が唯一の生きる道という選択は正しいのかどうかというまえに、敗戦国という宿命を帯びていることを肝に銘じるべきであり、自衛隊を再び戦前のような規模に持っていき、再び同じ過ちを犯さないためにも、日本国憲法を世界最高の抑止力として利用すべきだと思う。
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2018年03月22日

安倍官邸の大政奉還

森友学園の8億円よりも規模がかなり大きい加計学園の疑惑のほうに、
今後目が向けられる公算が大きいといえる。
安倍三選どころか会期中総辞職の方が可能性は高い。
佐川氏の証人喚問は、刑事訴追の恐れが云々という、
籠池氏と同じような証言が予想されるけれども、
かえってそれが疑惑の拡大につながっていくだろう。
加計学園の獣医学部に関していえば色々な憶測が流れている。
まさにごり押しの経済特区というふれ込みで始まった物ではあるけれども、
安倍氏の祖父は旧大政翼賛会に関わりのある、
旧日本軍の何百万発もの化学兵器遺棄問題を中国大陸に残している現状や、
東南アジ諸国に侵略した際の慰安婦問題の未解決があるかぎり、
紋切り型でもう忘れて欲しいと言っても、
暗い歴史の記憶は未来永劫子孫の時代まで続くことになる。
韓国の慰安婦問題は誠意を持って国が存続している間は、
誠意と謝罪をもって為政者は望まなければならない覚悟はいるだろう。
だからこそ、偏向的な憲法改正論議はすべきではないし、
周辺諸国への配慮と殊勝な姿勢は忘れてはいけない。
歴代の首相はみなそうやってきたのだから。
安倍政権では、日朝首脳会談はムリだと関係者は報道で主張していた。
海外からみてもそれは妥当な線だと思っている。
拉致問題は大事な事項だが、それは日本だけではないし、
入り口から取り上げていては、米朝の平和友好関係は樹立しない。
正恩氏以前の体制で起こった拉致問題でもあるので、
客観的な視点で取り上げるべきだと考える。
安倍外交は国内事情で今後進まなく成る可能性はある。
彼の代わりはいくらでもいると個人的には思っている。
内閣総辞職で官僚への大政奉還という事態も、
想定しておいたほうがよさそうだ。

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2018年03月21日

ビジョン無き2020東京五輪

 19世紀の普仏戦争でフランスが敗れ、クーベルタン氏が反戦と平和をスポーツ大会開催によって推進したいという、政治的な思惑で、近代五輪が始まったが、政治運動として始まった五輪を政治が利用するのは避けられないようだ。それが当然だとも言える。五輪の成功は開催することでその目的は達成されるわけだが、参加選手達はご褒美としての成績偏向(メダル争い)に執着するようなった。また観戦側もナショナリズム化し、為政者達は国威発揚の場として政治利用するようなった。ヒトラーが世界大戦の前にベルリンでの大会を国家プロパガンダで利用したし、モスクワ・ロスアンゼルス大会では米ソのボイコットの応酬で政治利用されて生きた。それらは夏季五輪でのものだが、冬季五輪でも今回の朝鮮南北の緊張緩和策として南北合同チームが結成され、管弦楽団や応援団の参加ということで、大会は見事成功したかにみえる。政治利用は良い方向に行けば恩の次だが、その逆もあり得るが、南北の平和という強いビジョンが伺えた。  
 2020東京五輪のビジョンがなかなか見えてこないのは何故なのだろうか。東日本大震災復興というビジョンは当初伺えたが、原発事故の後遺症がいまだにおさまらず、汚染水はコントロールどころか、海中に流入し続けているし、中間貯蔵施設もままならず、汚染土壌の塊は全国で溜まる一方だ。2020五輪のプレゼンテーションで最高責任者である安倍氏が、開催の安全性をアンダーコントロール発言で、なんとかイスタンブールを押さえて誘致にこぎ着けたが、開催のビジョンは日本国民には見えていなかった。世界初開閉式の屋根の新国立競技場が英国人のデザインによる設計で、震災の復興と未来への希望や平和を象徴する、流線型のスタジアムが話題にあがり、レガシーとしての価値もあると個人的に思っていた。ところが、日本のゼネコンの横槍で、経費関係でのごたごたもあり、安倍氏はどういうわけかご破算にしてしまった。そして、五輪誘致での裏金問題、五輪エンブレムでの著作権侵害問題などの疑惑もあり、開催8キロ圏でのコンパクトな開催がいつの間にか広域になった。誘致でのプレゼン通りにしないのは明らかに契約違反とも言える。コンペでウソをついて勝ち取れば何をしても良いという島国根性もあったのだろう。2016年のリオ五輪の閉会式に個人的な政治利用で参加した安倍氏には批判が集中した。人気取りの行動が国内ではそうでもなかったが、海外の目からすれば恥ずべき行為ともとれた。1964年の東京五輪にはハッキリとしたビジョンがあった。戦後の復興と東南アジア諸国への謝罪行脚という形で、各国での聖火リレーを行い、最終聖火ランナーは原爆投下当日に広島県で生まれた青年を抜擢した、徹底的平和をアピールする政治利用と見なされた。五輪開催の成功はアスリートのメダル獲得の是非ではない。開催国と招待国の融和と信頼を共有する機会でもある。アスリートファーストではない。反戦と平和の再確認と言う立ち位置でなければ意味が無い。マスメディアもそういう姿勢で臨むべきだと思う。
posted by KURARIN at 16:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする